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「恒心文庫:死とは」の版間の差分

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(ページの作成:「__NOTOC__ == 本文 == <poem> 死とは何か。若い人は考えたことすらないだろう。 天国か地獄か。極めて恐ろしいもの。華麗で美しい…」)
 
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== タイトルについて ==
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この作品は公開された際タイトルがありませんでした。このタイトルは便宜上付けたものです。
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== 挿絵 ==
<gallery>ファイル:死とは.jpg</gallery>


== リンク ==
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2022年3月29日 (火) 11:45時点における最新版

本文

死とは何か。若い人は考えたことすらないだろう。
天国か地獄か。極めて恐ろしいもの。華麗で美しいもの。さまざまな考え方があるだろう。
別にこれらに賛同するつもりもないし否定するつもりもない。
自分の1考えをこれからを生きる人生の参考になればいいな、と勝手に思い記すまでである。
改めて死とは何かを考えてみよう。
生命の「死」というのは生命体の活動が停止すること。すなわち生命体が終焉を迎えて死ぬという現象を指す。
或いは生命が生命として存在しなくなる状態を指す。
現象か状態か、正解はないのだが、どちらの解釈にも共通するのが「生命活動が止まって生命に終止符を打つものが死である」ということである。
つまり、死は「人生の終止符」なのである。
我々が日本語なり英語なり文を書くときは毎回最後に読点やピリオドを入れるだろう。
入れるのが決まりだから当たり前すぎて気にも留めたことがない人が多いと思う。
文の最後に打つ終止符は文字の流れをせき止める水門なのである。
文を書く人間の1つの操作で文字の流れはいとも容易く止めることができるのだ。
人生も同じ。死という終止符が生きている時の流れを断ち切る水門なのである。
唯一文と人生が違うのは終止符の数に過ぎない。
というのも人生における終止符は生の流れに訪れるただ1つの死であるのに対し、文章は幾つもの文から構成される以上は文と文を区切る役割としての終止符を多用するからである。
単数形か複数形かだけの違いなのでよくよく考えればあまり大きな差ではない。
「人は死ぬ 必ず死ぬ 絶対死ぬ 死は避けられない」
だけれども所詮は終止符が単数形か複数形かしか何気ない文章と差がないのである。
だから死を恐れる必要は考えるに何もない。
我々が文をどこまで書いてどこまでで止めるかを吟味して1つ1つ積み重ねていくことで1つの美しい文章が完成する。
1つの1つの美しい文字列のハーモニーが文章の完成度を左右する。
1つとして不必要な要素がない。全部の文、いや全部の文字が主人公なのである。
人生は1回しか終止符が打てないと悲観する必要はない。
だって文章中の全ての文字は主人公となることができるのに、たった1回の人生が無駄になるなんてことはまして起こるはずがないからである。
死は恐ろしいものではなく、むしろどのように終止符を打つかを吟味する準備期間が長いことに感謝すべきではないか。
その中でも特に終止符というものは一見乱雑に見える文字を綺麗にまとめ上げる、ある意味魔法のようなアイテムなのである。
死もそれと一緒。乱雑な経験の連続を人生という水の流れが最終的にせき止められることで美しく水はまとまる。
終わりがあるからこそ最初から途中を経て最後の終止符までの一連の流れに美が誕生するのである。
つまり、死とは物事の最後をまとめ上げる終止符の役割を最も美しい形でまとめ上げる最強の能力を持った黒魔術なのである。
死は1回の人生をまとめ上げたものであるとしたら、人生を端的に表したものであると言えるのではなかろうか。
人間が最後どのように死ぬか、それだけでその人間だどのような人生を送ってきたのかは、案外分かってしまうものなのである。
例えば若くして自身の才能を発揮し世間を風靡した美青年。
悲しいながら彼は長生きできない。というのも不慮の事故による死を迎えることになってしまうからである。
世間は彼の死をひどく悲しみ弔ってくれる。そうしていつしか「悲劇のヒーロー」として後世まで名が轟くこととなるだろう。
ある日を境に突如大金持ちになって他人に傲慢な態度で振る舞う者、他人からのしっぺ返しに怯える日が続いた後に不安や不信感の重圧に潰されて何とも奇怪な死を迎えることとなる。
親の七光りを使って自分は楽をして生きようとする者は誰からも忘れ去られて孤独に駆られ誰にも看取られずに逝くことになる。
新年を抱いて充実した毎日を過ごす者の最期は周りの誰しもが悲しませないよう現実を受け止めてくれるだろう。
特に何にも該当しない人とか普通すぎて特集することがないという人とかでも最後は自分の妥協する所に収束するのが定めなのである。
この中に恐ろしい死というものはなく、因果応報の結果で片付く問題なのである。
しかし、この世に1つだけ、筆者自身も恐れる死というものがある。
それが「荒死」。魂が荒れに荒れて人間が否定された惨くて恐ろしい、残虐な人生を否定してこの世から早急に葬り去ろうとする死が荒死なのである。
どういった人が該当するか。答えは一つ。
多くの人間から構成される集団を敵に回すこと、これに尽きる。
そこに更に義務も権利も破棄して自分勝手を貫き通して周りに余計な心配や迷惑を与えてカルマを溜めさせている人間。
そのことに薄々気付いているにも関わらず、「俺は嫌な思いをしていないから」と見て見ぬふりをする人間は尚更恐ろしい荒死が待ち構えている。
多くの人間から恨まれると言うことは死後も成仏などできるはずがなく、どこにいようが恨みを買っていじめられ続ける。
油まみれの世界で君はマッチで燃える火花。一生消えず徐々に勢いを増す火だるまが水を求めてわめき散らす姿はたいそう片腹痛し。
大人だろうが子共だろうが別世界の生命は容赦してくれない。枯れない油田に更なる燃料を求め輪廻転生を繰り返す。
それがいつしか快楽と変わるのかもしれない。
どうした。
言われて嫌ならちゃんと反論してみろ。
反論できぬ人間でも今からでも改心して考え方を変えれば、最終的な死は変わるかもしれない。
少なくとも荒死は避けられるとは思う。
俺は君の20年後を見ている。

タイトルについて

この作品は公開された際タイトルがありませんでした。このタイトルは便宜上付けたものです。

挿絵

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