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「恒心文庫:夜はコアントロー」の版間の差分

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(ページの作成:「__NOTOC__ == 本文 == <poem>   あの日と同じバーカウンタで彼と話した。窓に張り付いた雨粒が東京タワーの明かりを濡らしてい…」)
(相違点なし)

2019年7月6日 (土) 19:20時点における版

本文

  あの日と同じバーカウンタで彼と話した。窓に張り付いた雨粒が東京タワーの明かりを濡らしている。
 「きみにそう言ってもらえるのはすごく嬉しい。でも、僕はもう終わってたんだと思う。はじめからずっと、何もかも手遅れだったんだよ」
  絞ったレモンを灰皿に捨てた。俺がその上に灰を落とすと、透明な果肉は黒く汚れてぐちゃぐちゃになった。
 「僕たちはどう見えてるんだろうね」
 「……さあ」
 「悪いことなんて一つもしてないように見えたらいいよね。なんだか、世界に二人になってしまった気分だよ」
  たった半年だ。たったの半年で、彼も俺も、すべて変わってしまった。あいつが俺に話を持ちかけてきた日が、遠い昔のことのように思える。血の匂いがしないか? 彼がそう言ったのを、俺は否定できなかった。

  ※

  彼とはホテルの45階にあるラウンジで待ち合わせた。ガラス張りの窓のカウンター席に、既に彼はいた。隣に座る。
 「もうチェックインは済ませたよ。あの人から聞いているかもしれないけど、後で色々説明する」
 「はいはい。何飲んでるんですか」
 「ヴェルモット」
 「へー。赤くて綺麗ですね」
 ウエイターを呼び止め、ジントニックをオーダーした。それを二杯飲み、煙草を吸って、部屋に向かった。
  おさえられていたスイートは最上階にあった。エレベータのボタンを押して、扉が閉まると同時に俺は彼にキスをした。抵抗する彼の腰をがっちり掴んで、食いしばった歯を舐める。音を立てて扉が開いた。乗り込もうとした宿泊客と目が合う。
 エレベータの中で男同士がキスしている、それを見てぎょっとした様子の間抜け面を睨みつけて、俺は閉ボタンを押した。最上階に着いたエレベータが停止。解放してやると彼は激昂した。
 「部屋まで待てないのか!」
 「大声出さないでくださいよ。気分くらい高めさせてくれたっていいでしょ。お互い好きでもないのとやるんだから」
  彼は静かになった。横顔が赤い。無言で部屋に向かい鍵を開ける。部屋に入ってすぐ彼の後頭部を掴んで、ドアに押し付けて後ろから犯した。早くもズタズタになったド淫乱がへたり込む。邪魔だったから蹴飛ばし一人バスルームに向かった。
 バスルームだけで俺の部屋ほどの広さがある。この部屋をおさえた上司の財力には驚かされるばかりだ。

  あれに突然呼び出されたのは一週間前だった。丸一日休暇をやるから、自分の恋人と寝てほしい。上司は言った。当然俺は断った。なんでこいつの変態趣味に付き合ってやらなきゃいけないんだ。つーか恋人って誰だよ? しかし、奴が小切手と万年筆を俺に差出し、好きな額を書いたらいいと言ったので俺は揺れた。そして、条件を呑んだ。今日という日が近づくごとに憂鬱になったが、約束通り振り込まれた額は、俺に微笑みかけてくれている。
  バスルームから出ると、あのクソ上司の恋人とやらは、心底嫌悪した目つきで俺を睨んでいた。
 「まだ何も説明していない」
 「あんたを好きにしていいって聞きました」
 「きみにはしてもらいたいことがあるんだよ。初めは僕の指示に従えと言われなかったのか」
  そういえばそうだった気もする。ソファに座った彼はアタッシュケースを開けた。
 「電源を切って、スマホをここに入れて。何か持ってないよね? 録音とか、録画ができるもの」
 「あんたは?」
 「……。早くしてくれ」
  指示に従う。彼はデジタルカメラを取り出し俺に手渡した。
 「なんですか?」
 「これで、その……してるときに、僕を撮ってほしい。終わったら返して」
 「……へえ、そうなんですね」
  にわかに興奮してくる。
 「これ見て盛り合うんですか」
 カメラを指でとんとんと叩く。他の男とのハメ撮り見て、また豚と獣姦するんですか、とは言わないでおいた。俺を睨みつけてくれることを期待していたのに、眉を下げて悲しそうに俯いた。
 「違うと思う」
 「え?」
 「シャワー浴びてくるけど、いいだろ」
 「あー、はい」
 フェラ顔とか、突っ込まれて感じてる顔とか何枚か撮ってやった。最初の夜はただそれだけで終わった。
 その夜以来しばらく上司からの音沙汰はなかった。彼も彼で、素知らぬふうで仕事をしている。俺に話しかけてくるのときもあくまで平静だ。彼の澄まし顔はめちゃくちゃ笑えた。あんなにエロいツラでチンポをねだってきたくせにな。
 そんなことも忘れかけていた頃、また上司に呼び出された。

 カメラは今日はいらない、と彼は言って、前回と同じように俺からスマホを没収した。
 代わりに俺に煙草のボックスを手渡した。開けてみたが、なんの変哲もない煙草だ。……若干シワがついていること以外は。
 「これって」
 「うん。野菜。今日はバーベキュー」
 彼は悲しげに笑っている。
 「あの人が仕入れてくるのはすべて本物だよ。で、ここにある錠剤が、抜けてきたときの最悪な気分をマシにする薬。これ使ってセックスしてこいだって」
  怖い? と彼に尋ねられたが、俺だって大学のときにやったことがあるし今更怖くもなんともない。
 すぐにやってきた陶酔感のなか、二回セックスした。だんだん食欲が湧いてきてひたすらルームサービスを頼んだ。ふらふらしながらシャンパンをラッパ飲みして、口移しで彼にも飲ませてまたセックスした。
 それからはやけに詩的な気持ちになって、二人で映画チャンネルを回し、シラフじゃ絶対に見ない恋愛映画なんかを見た。失恋した記憶を消す海外の映画で、彼はそれを見て「絶対に忘れたくない」と呟いた。
 俺は彼より先に眠ってしまい、起きると朝だった。先に帰っていると思ったのに、彼はまだベッドにいた。なんで帰らなかったのか聞いたら、きみがいたから、と返された。

 彼と寝るのは大体月に一回だった。
 好きな奴には絶対できないであろう欲望を、彼で解消する。そしてそのたびに大金が振り込まれた。俺はストレス解消ができて良いし、奴らもプレイの幅が増えて良いな、はじめはそう考えていたが、三度目、四度目の夜を終えたあたりから、俺にはどうにも奴らの仲が健康的であるように思えなくなっていた。
 彼らは俺のいないところで頻繁に口論をしている。理屈ではなく、雰囲気で、彼らの関係がもう終わっていることに気付いた。
 上司は苛立って彼に当たり散らす。彼は何か言いたいのをぐっと堪えて下を向いている。俺はなにをしているんだろう。上司と欲望の言いなりになって、ただ傍観しているだけの俺は。

 五ヶ月が過ぎた。
 また上司は俺に小切手を書くように言ったが、0と書いて突っ返した。眉根を寄せた上司は、それでもホテルを取ったらしい。バカかこいつ。
 当日の夕方、俺は彼に言う。
 「今夜メシ行きません?」
 「急だな」
 「もう予約しちゃったんですけど。ホテルに連絡してチェックイン遅らせてもらえばいいでしょ」
 「強引だね。いいよ、付き合うよ」
 彼は微笑んで、仕事に戻った。
 必死で記憶を辿り、彼の好きそうな店を急いで調べて予約を入れた。彼が喜んでくれたので、俺も嬉しかった。誰かが喜ぶことで嬉しいと思える気持ちが、俺にもあったことが驚きだった。
 ホテルにも一応行ったが、彼を責め立てる気になれず、服を着たまま雑談をして終わった。
 夜も更けて電車がなくなった頃、予め呼んでいたタクシーに彼を乗せた。
 「送ってくれるのなんて初めてじゃないか」
 「そうでしたっけ。じゃあまた」
 「待ってよ。僕の部屋来る?」
 「……いいです」
 「じゃあきみの部屋は?」
 「……」
 タクシーの運転手がチラチラこっちを見ている。俺は乗り込み、行き先を変更してもらった。
 「きみ優しいんだろ」
 几帳面にシートベルトを締めながら彼は笑っている。
 「なんでそう思うんですか」
 「わかるさ。シャイだからそれを誤魔化してるだけだよ」
 「じゃあそういうことでいいです」
 俺の部屋に着いてから一度だけセックスした。コンビニで買ったビールを飲み、煙草を吸いながらくだらないテレビを見て、眠った。彼と寝たのがこれで最後になるとは、そのときは思いもよらなかった。

 そして六回目の夜。
 待ち合わせの時間に、彼は来ない。神経質な彼が遅刻だなんて珍しい。電話をかけたが通じなかった。
 雨が降り始めている。二時間が過ぎて、ようやく彼はやってきた。泣きそうな顔だ。
 「遅れて悪かったね、着替えてたから……飲んでもいい?」
 「構いませんけど」
 コアントロートニックを彼は飲んだ。そして、殺しちゃった、と呟く。俺は驚いて、思わずグラスを落とすところだった。
 「誰を……?」
 「わかるだろ?」
 上司の顔が過る。
 「今日さ、行くなって言われたんだよ。自分でセッティングしたくせに」
 煙草に火をつけ、それをゆっくり吐いた。彼はそうしながら、どこか別の世界の、他人の話をするみたいにして少しずつ話を始めた。

 「自分を選んでほしかったんだろうね。僕が行かないことを望んでたんだ。でも僕はもう何もかも耐えられなかったんだよ。弱みを握られて服従させられるのも、盾にされるのも、自由を奪われるのも、全部疲れた」
 俺は黙ってそれを聞いている。
 虚ろな目で、彼は少し口角を上げた。

 「それと……暴力は心の弱さに打ち勝つただ一つの方法なんだってわかったよ。あの人をメッタ刺しにしてるとき、本当に気持ちがよかった。暴力は絶対的な支配だ。今までずっと言いなりになってきた僕があの人を支配しているのかと思ったら、アドレナリンが信じられないくらい出て、あの人の肉とか内臓とかが飛び散って、もう死んでるって分かってるのに刺し続けたよ、何回も何回も何回も何回も」
 夢見心地な彼の背中をさする。
 「どこか遠くへ行きませんか。まだ間に合うでしょう。金ならあるんです」
 しかし、彼は首を縦には振ってはくれない。
 「……わかりました」
 せめて、彼が飲んでいるのと同じコアントローを飲んだ。焼けつくように甘いのに、後には何も残らなかった。きれいだ、と彼は煙草を吐き出しながら言った。
 「なんです?」
 「東京タワー」

 ※

 あの夜から、彼とは会っていない。
 件の殺人は次の日大きく報道されたが、すぐに他の悲劇に上書きされ、一年もすれば誰も思い出さなくなった。
 彼がどうなったのか、俺は知らない。ただ、彼と会うことはもう二度とないんだと感じる。
 夜の東京タワーの明滅、窓を濡らした雨粒、彼の吸っている煙草の匂い、二人で映画を見て感じた胸の痛み、湿った汗が混ざり合う感じ、服を着たまま抱き合ったこと、あのとき飲んだコアントローの焼けつくような甘さ。
 春の喜びも、夏の朝の空気を吸うことも、枯葉の侘しさに手を握り合うことも、寒い冬を寄り添って過ごすことも、絶対に叶えられない。
 全て忘れ、過去に消えた思い出をいつか懐かしむだけなのだともう分かっている。
 別れ際に「じゃあ、元気で」と言った彼が、笑っていたのか泣いていたのか、既に思い出せないのだから。
 俺にはそれが、ひどく悲しかった。

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