「恒心文庫:世界の終わり」の版間の差分
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2020年3月16日 (月) 23:14時点における版
本文
降り続く雨。
景色の全てがモノクロームに見える中、灯りで橙に彩られた窓には、二つの影が映っていた。
影の正体の一つは、紺色のスーツに身を包んだ肥えた男だった。その下にパジャマのようによれた水色のストライプのワイシャツを着ている。
もう一つは若い短髪の青年。やはりスーツを着ているが、前述の男よりは色が薄い。ワイシャツは無地で、4月のオフィス街を歩けばごまんと見かけるであろう風貌の男であった。
およそ一般的な見識を持つ者ならば、この二人の関係性を見破ることはできないだろう。上司と部下、一見するとそう見えなくもないが、その実彼らは全く別の職業に就いているのである。
肥えた男は弁護士をしている。収入は芳しくないが、元々高名な家の生まれだったこともあり生活には苦労していない。二人がいる建物も彼の自宅である。
もう一人は地方に住むごく一般的なサラリーマン。どこに勤めているのか、歳はいくつなのか、それはわからない。ただ青年は、弁護士の男に向かってしきりに声をかけていた。
「先生!!!!!どうかお願いします恒心を!!!!!!!我々の声なき声に力を与えてください!!!!!!」
肥えた弁護士は、満足そうにそれを聴いていたが、口は閉ざしたままであった。
青年はしばらく弁護士に言葉をかけると、静かに立ち去って行った。
外は相変わらず、雨が降り続いていた。
あくる日も青年はやってきた。
「先生!!!恒心を!!!!声なき声に力を!!!!愛なき時代に愛を!!!!愛を!!!!!!」
肥えた弁護士はそれを聴きながら満足げな顔を見せる。柔らかなクッションのついた椅子に、彼の大きな尻が一層深く沈み込む。
ふと目を移すと、肥えた弁護士は利き手をせわしなく動かしている。その先に目を移すと――彼の陰部が手中に収まっていた。
元々小さなそれは、彼の大きな手に完全に包まれ、一瞬その姿は確認できない。しかし上下に動かす中で一瞬、彼の陰部の根元を視認することができた。
「愛なき時代に愛を!新しい時代を!!!」
青年の口から言葉が紡がれるたびに、弁護士の手は一層せわしなく動く。次第にそれからは透明な液体が姿を見せるようになるが、水音は外に降る雨の響きにかき消されていた。
次第に息が荒くなり、顔の筋肉は弛緩し、表情は一層だらしのないものに変わっていく。
青年はそれを気にすることもなく、一心不乱に叫び続ける。
「我々は先生のお言葉を待ち続けています!どうか恒心を!」
その時、肥えた弁護士の根元から白く粘ついたものが迸った。弁護士は刹那恍惚とした表情を浮かべたかと思うと、すぐさまそばに置いてあるティッシュペーパーを手に取り、念入りに液を拭き取り始める。
作業を終えた弁護士は次に青年の服に目を走らせ、流れ弾に被弾していないか確認を始める。まあもともと垂直に飛ぶ上に厚い皮に包まれたそれからは飛距離も出ないため、全くの杞憂であるのだが。
着弾の有無を確認した弁護士はその一物をそっとズボンに仕舞いこむ。それを合図にしたかのように、青年は弁護士の家から立ち去った。
外は相変わらずの雨であった。
この奇妙な関係こそが、この二人を繋ぎとめるものであった。
青年はこの弁護士の支持者である。彼が支持者になったのはある年の夏頃、弁護士の活動報告の日記を読んでからだった。
ちょうどその頃弁護士はある組織と対峙していた。それは以前より問題を抱え、たびたび槍玉にあがる組織であったのだが、そこが大きな不祥事を起こしたのである。
それはニュースでも報道され、多くの人々から批判や不満が噴出した。しかしその組織はそれらの声に耳を貸さず、無視を決め込んでいたのである。
弁護士はその組織のあまりに杜撰で腐敗した体制が許せず、民衆の声を受けて立ち上がった。その時多くの支持者を得ることが出来た。青年もその一人だったのだ。
やがて青年と弁護士は親しい関係を持つようになり、今やこのような行為を行う仲となったのである。
それはふしだらな関係に見えるかもしれない。しかし青年と弁護士はそれ以上の行為に至ったことはただの一度もないし、青年も弁護士の行為について特に不快な感情を抱くこともなかった。
それは、不思議にバランスの取れた関係であったのだ。
その日、弁護士はいつも通りクッションのついた肘掛け椅子に深く腰掛け、時間を待っていた。
はたしてドアをノックする音が聞こえ、青年が静かに部屋に入ってきた。
青年はちょうど肘掛け椅子と向かい合うように置かれた椅子に座ると、やや前掲した姿勢になると、静かに息を吸い込んだ。
「先生、毎度のご活躍、拝見しております!困難な時代に生きる我々に力を与えてください!」
いつも通りありったけの賛辞を紡ぎだす青年。しかし弁護士はいつもと違い、腕を膝の上に置いたまま動く気配はなかった。
奇妙に思った青年はキリの良いところで口を閉じる。すると弁護士が静かに口を開いた。
「君は当職を馬鹿にしてるんだね。」
うつむき加減に一言、弁護士はそういうと、口を閉じた。青年は一瞬目を見開き、その後即座に否定の意見を述べた。
「先生!そんなことは決して…」
「もういいナリ。当職は全てわかったナリ。当職の見ていた世界が、全て間違っていたことに…」
彼は気づいていた。いや、本当はすでに何もかもわかっていたのだ。自分の支持者は全て、自分を嘲笑するために創り上げられた嘘の存在であることに。
家柄が良いだけの仕事のできない無能弁護士。それが彼の真実の姿。元より彼は多くの人々から嘲笑され、虐げられてきた。彼の発した言葉はすぐさま晒し上げられ、事務所の看板は落書きだらけになった。
しかしあの夏だけは違った。巨悪に立ち向かう姿に向けられた尊敬の眼差しは、確かに真のものであった。今思えばもしかしたらそれは、惨めな自分に神様が与えてくれた、たった一つの情けなのかもしれない。
それは長くは続かなかった。所詮自分は無能弁護士。一向に事態は進展せず、支持者は次々と離れていった。さらにそのことばかりに目をとられ、別の案件を放置して失敗したことがばれると、ますます離脱は加速していった。
いつしか自分はかつてのように孤独になってしまった。嘲られる毎日。しかし、そこにたった一人、あの青年がいたのだ。彼はこんな自分をありったけの言葉で讃えてくれる。いつしか自分は彼に身も心もすべてを委ねるようになっていた。
しかし、時の経つにつれ、段々と真の姿に勘付くようになっていた。自分に向けられた賛辞の声は、偽りであることに。その言葉に踊らされる自分をみて笑うことが本当の目的であったことに。
何かが崩れ去るようだった。ちょうどそれは遥か昔の記憶。自分を友達と言ってくれたクラスメイトが、ある日自分を虐めていたグループのメンバーを引き連れ、真実を打ち明けた。その光景が脳裏を過った。
いや、それも偽りの言葉かもしれない。本当は最初から全て気づいていた。それでもこの奇妙な関係を続けようとしたのは、ただ一心に愛を求め、自分の望んだ世界を欲したせいかもしれない。
弁護士は狼狽する青年に声をかけ、最後の賭けに出た。
「もし君が本当に当職を愛しているのなら、当職をここで刺してくれナリ。」
二つの椅子の間に設置されたテーブルに、そっとナイフを置いた。
橙色の灯りに彩られた家から、薄い紺色のスーツに身を包んだ青年が静かに立ち去っていった。
流した涙は降りしきる雨にかき消され、用水路へと流れていった。
空は、次第に色付き始めていた。
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- 初出 - デリュケー 世界の終わり(魚拓)