「恒心文庫:一本の傘」の版間の差分
>イナジュン落花生 (ページの作成:「久しぶりに手紙が届いた。何かと思って読んでみると、昔同じ事務所で働いていたあいつの訃報と、通夜の案内状だった。 と…」) |
(相違点なし)
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2021年5月9日 (日) 18:54時点における版
久しぶりに手紙が届いた。何かと思って読んでみると、昔同じ事務所で働いていたあいつの訃報と、通夜の案内状だった。 とはいえ、あいつが死んだこと自体は知っていた。常々殺害予告をされていたあいつが、本当にナイフでメッタ刺しにして殺されたというニュースは、様々な所で報道されていたからだ。 しかし、あの騒ぎからすれば必ず家族葬をするはずなのに、なぜ招待状なんか送ったのか。 そう疑問に思いながら差出人を見て、すぐに納得してしまった。
会場にいた人は意外と少なかった。 しかし、それも仕方ない。仕事をへまして大炎上を起こし、それでもなお子共のように罪を認めず喚き続けたあいつには、人間関係という贅沢など覚える余地もなかったのだろう。 席は特に決まっていないらしく、少し迷って端の席に座った。 それから通夜の儀式が一通り終わり、会食の時間となった。 あいつの父親が席を案内してくれた。向かい側に座っていたのは、訃報と案内状の差出人だった。 「お久しぶりです。」 「ああ、久しぶりだな。」 会話は弾まなかった。 俺たちだけでなく、会場全体が静かに食事をしている。 その原因もやはりあいつだ。通夜に呼ばれるほどあいつと親しかった奴らは、みんなあいつの炎上に巻き込まれ、嫌な思いをしている。 宴会場にあった寿司はあいつの高級嗜好に合ったものだったが、雰囲気が悪いと料理は非常に不味くなることを知るために消費された。
「バーに行きませんか?」 二十一時前、通夜がお開きになり、二人きりになった葬儀場のロビーで、彼はそう言った。 「思えば、事務所が解散になってから全然会ってませんでしたよね。話、聞かせてください。」 仕方ないな、と了承して外に出る。地面を照らしていた月が雲に隠れ、すぐに見えなくなってしまった。
バーでも会話はあまり弾まなかった。最近の依頼や、事務所の様子について互いに質問したり話したりするのだが、2、3回会話するだけで終わってしまう。 昔の話もできなかった。彼は性処理のための道具としてあいつに雇われていただけであることは俺も気づいていた。 毎週、酷いときは毎日、事務所から一緒に出ていく二人。あいつと彼が近づくたびに聞こえる、あいつの気持ち悪い声と彼の何かを我慢しているような声。 そんな状況だったのだから、彼が俺と一緒にあの事務所をやめたのはむしろ正解だったといえるだろう。 だが、そんな事、あいつの通夜が終わり、葬式を控えた状況で言える訳がない。 外からは雨が地面を打つ音がしてきた。それが店内の環境音と混じるうちに、どうにもならない気持ちが胸の底から押し上げてくる。 その思いを忘れるためか、俺も彼も酒をかなり早いペースで飲んだ。 二時間ほど経ったところで、彼は一杯のカクテルを注文した。 「お前も、カクテルなんか飲むんだな。」 「そんな意外そうに言わないでくださいよ。」 彼が苦笑したのを見て、彼の表情が今初めて変化したことに気づいた。 すぐに、バーテンダーがカクテルグラスをカウンターの上に置く。 「コロネーションでございます。」 彼はそのグラスを、決意を固めたかのように持ち、一気に傾けた。 「豪快な飲み方だな。」 彼はその言葉を無視して、俺に語りかけ始めた。 「あなたは、「河童」の最後に出てくる詩を知っていますか?」 「ああ、知っているぞ。「椰子の花や竹の中に……」とかいう奴だろう?」 「そう、それです。」 「それがどうかしたのか?」 「いや、僕はその詩をもっと直喩的に訳したことがあるんですが、それに対する疑問が湧いたんですよ。」 「まったく、お前は本当に文人だな。日本の孔子でも目指しているのか?」 「いやいや、そんなことはないですよ。ただの好奇心です。」 「そうか。じゃあ俺も好奇心で聞くが、その直喩的な詩というのはなんだ?その疑問というのは?」 「はは、そんなにがっつかなくてもいいじゃないですか。まずは僕の訳だけでも聞いてください。」 そう話すと、彼は本を見るような仕草をしながら、詩を諳んじた。
—―静かな繁殖と生命力の中で 道徳はとうになくなっている。
目も向けられぬ儚さと共に 救済ももうなくなったらしい。
しかし我々はこれから死ななければならない たとえ現実が我々の中にあったとしても。
(そのまた現実の裏を見れば、継ぎはぎだらけの歴史書ばかりだ?)—— 「……余計分からんな。一体どういうことなんだ?」 「なに、簡単なことですよ。トック君は現実には仏陀、あるいはその教えによる道徳も、基督、あるいはその審判による救済も既になく、その上現実というのは自分の心によってのみ捉えられる物ですから、我々は現実という心の中で自由にできる救いのない芝居の主人公として死ななければならないことを書いたんです。実に厭世的でしょう?」 「なるほど……それで、現実の裏にある継ぎはぎだらけの歴史書というのはなんだ?」 そう聞いた俺に対し、彼はまるで無邪気な子供のように質問を返す。 「心の中にある現実の表側には自分がいる。じゃあ裏側には誰がいると思いますか?」 「……他人か?」 「正解です。継ぎはぎだらけの歴史書というのはつまり、他人の現実の中で作られた自分なんですよ。そこには僕自身や記憶や噂話が継ぎはぎになってできた歴史書のような人物像が——」 「もういい。お前が想像力豊かなのは十分すぎるぐらいに分かった。俺が知りたいのは、それに対するお前の疑問だ。」 少し不満げな瞳が、話を遮った俺を見る。じっと、心の奥まで見透かそうとしているように。 「今から言おうと思ってたんですが……とにかく、僕は気になったんですよ。」 瞳が一気に近づく。それと同時に、俺は唇を奪われていることに気づいた。 甘く、熱く、ねっとりとしたキス。それは恋人にするもののはずだ。ではなぜ彼はそんなことを俺にしているのか。 そんな疑問を抱きながらその口吻を甘受していると、彼は唇を離して、俺の耳元に運んだ。 「もし、他人の現実、その表舞台に立てるほど、互いを知り尽くしたら、どうなるのか。」 じっとりと湿った甘い音色。まるで世界一愛している人へ手紙を書くように、優しく、強く、俺に向かって声を紡ぐ。 「あいつが求めていたのは僕の身体だけだった。その呪縛から解き放たれた今、ようやく僕は、人のことを、あなたのことを、知り尽くしたいと思えるようになったんです。」 彼は身体を売るという道徳上の罪を犯した。本来なら、彼にはそんなことを求める権利などない。だが、彼は続ける。 「河童は言いました。「いかなる犯罪を行いたりといえども、該当罪を行わしめたる事情の消失したる後は該犯罪者を処罰することを得ず」と。だから、あいつが死んだ今、僕はまた人を愛することができるはずです。」 再び、彼の顔が俺の前にやってくる。誘惑するように、または受け入れるように、彼は言った。 「一緒に、しましょう?」 きっと、これは故人への冒涜であり、背反であり、嘲笑であるのだろう。だが、彼の想いは、俺をその冒涜へと駆り立てるのに十分だった。 俺も、彼のことが好きだったから。 「勿論、いいぞ。」 バーテンダーが気を遣って渡してくれた一本の傘を差して、俺たちは店を出た。