「恒心文庫:ポジショニング奇譚」の版間の差分
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2021年6月21日 (月) 20:12時点における最新版
本文
§1
「ずれてますよ」
斜め向かいに座る長身の男性が隣の男へ言った。
「や、これはいけない。Y君、直してくれるかね」
「まったく仕方のない人ですね、Kさんは」
まんざらでもない調子で言って長身の男は立ち上がると、私の眼前に座る弁護士の前にしゃがみこみ、ごそごそと何やらやりはじめる。
ベルトを外すカチャカチャという金属音が聞こえ、つづいて白いスラックスのチャックを開く音がきこえる。
応接テーブルをはさんだ私からは、彼が正確に何をしているのかはわからない。
Kの股間の前で背中を動かすその姿は、まるで口淫を施しているかのように見える風景である。
が、見当はつく。
おそらくKの陰茎のポジショニングを直しているのだろう。
というのも、私が相談をしに来てから、彼らが件のポジショニングを直すのはこれで3回目であるのだ。
目をあげると、眼前の弁護士は眉1つ動かさず、私を親しげな眼差しで見つめている。
まるで他者に陰茎のポジショニングを直させることはさも当然であるというように。
まるで人前で陰茎のポジショニングを直すことはごく当たり前だとでもいいたげに。
9月も末だというのに事務所には冷房がきつくかけられており、空気はひどく乾燥している。
私は乾いた唇を舐め、口を開く。
「それでKさん、ネット上での誹謗中傷というものは――」
「何度も申しあげたように、解決可能です」
長身の男に陰茎のポジショニングを直させながら、太った男が言う。淡々と。
「本当ですね」、私は再三たずねる。
ここまで慎重になっているのは私自身ネットに強くないということもあるが、一重にこの弁護士たちの異常な光景を見たためである。
私を安心させようとしているのか、Kは唇の端をあげ、美しい微笑を形作る。聖母のような微笑。
「当職は、私は、ITには非常に自信があります。ネット上の誹謗中傷は解決可能です。では具体的にどうするのか。それはIP開示をするのです。パカパカ開くのです」
「IP開示、ですか……」
私は疑問を口にしてよい物かどうか暫し悩み、「しかし」、と言う。
「しかし……何でしょうか?」
Kが柔らかな口調でたずねてくる。こたえようとしたその時、「よし、完璧だ!」という男の声がする。
「直りましたよKさん。今度こそ完璧です!」
Yという男が控えめなガッツポーズを作り、Kに言う。見るとKの白いスラックスは再びチャックが閉められている。
「今度こそ完全に、当職の当職のポジショニングを戻してくれたのだろうね?」
KがYへ優しくたずねる。その姿はおつかいから戻ってきた幼子に、「買い忘れはないかい?」と確認する母親のようである。
「はい、問題ありません。念のために棒を上に向け、先端をパンツのゴムに挟んで固定しておきました。これでいくら動いても、もうずれませんよ」
Yが額から流れ出る汗をふきながら爽やかな笑みを浮かべる。ポジショニングの慎重な調整で汗をかいたようだ。
なるほど、事務所に冷房が効いているのはこのためか。至極どうでもよい謎がひとつ解けたが、私には私の問題がある。
兎にも角にも話を戻そうとKに向き合う。
「ええっと……それで話の続きですが。Kさん」
「はいナリ」
傍らにうずくまるYの頭を撫ぜながら、Kが私を見る。さながら忠犬とその飼い主のよう。
「IP開示とおっしゃいましたよね。私もその方面は明るくないのでどうとも言えないのですが、その、あまり、効果がないと耳にしたことがあるのですが」
「何がでしょうか」
「ですから、IP開示はあまり意味がないと聞いたことがあるのですが、実際どうなのでしょうか」
「え? 何が意味がない?」
「いえですから、IP開示です」
Kがむっつりとした顔をし、うつむいたのはそのときであった。両の拳を握りしめ、顔を耳まで真っ赤にし、わなわなとゼリーのようにその肉体を震わせている。
その姿は、どう見ても怒っているようにしか――
「いきなり何を言い出すナリ?」
ああ、やはり怒っていた。
§2
世間には言ってよいことと悪いことがある、という。言わぬが花という故事成語もある。
ではこの場合、やはり私は指摘するべきではなかったのだろうか。何分社会経験が不足しているためか、こういった事柄に己の未熟さを痛感する。
私の後悔をよそにKが真っ赤な顔を上げる。怒髪天を突くなどというが、彼のワックスによって逆立てられた短髪はまさにそういった状態を示しているようにも思える。
「当職の! 提案するッ! IP開示に意味がない!?」
Kが唾を飛ばしながら怒鳴りつけてくる。
「では、あなたは信じられないのですかッ!? 当職の! ネットに強い当職の! 最善たる提案を!?」
中年の男性がする怒りの表現とは思えない。わがままな子どもがそのまま37歳になればこうなりそうな怒り方である。
「いや、あの、その、申し訳ありません」
兎にも角にも頭を下げるが、Kの怒鳴り声は尚も上から落雷のように降り注いでくる。
「おっしゃいましたねッ!? 開示!! パカパカに意味がないとッ!! ではどうしろと!?」
「失言でした。申し訳ありません」
「パカパカは負けないのです! 人はみな、パカパカをすべきです! なぜなら当職の提案なのですから!! パカパカ! パカパカ!!」
「お、落ち着いてください、Kさん!」
ようやくYが割って入り、「どうどう」などと言ってKをなだめる。彼はKの頭を抱いて私をにらむ。その姿に私は小学生時代好きな子にいたずらをしてしまったときの後悔を重ね合わせてしまう。
スカートめくりをして囃したてたとき、スカートの端を握りながら私をきっと睨んだ少女。夕陽に赤く染め上げられた校舎。
「当職の、当職の考えは最適……当職に間違いなどない……そう、当職は何も悪くない……あの少年のことだって……」
Kがまだもごもごと何かしら言っているのが聞こえる。Yは慌てて彼を見、そして「ナムサン!」と叫んだ。
「Kさん、大変です、ポジショニングが! 今の興奮で少し陰茎が膨張したせいで、ずれています!」
「なに、それは本当かね」
瞬間、Kが落ち着きを取り戻す。
彼は応接用のソファにどっしりと座りなおすと、「直してくれたまえ」とYに言う。Yが再び彼の前にうずくまり、ごそごそと何やらはじめる。4回目。
「いやぁ――さん、取り乱してしまいました、申し訳ないナリ」
茶をずずず、とすすりながらKが私にウィンクを飛ばす。その顔には聖母の笑みが戻っている。
私はそろそろ本格的にこの事務所に嫌気がさしてきつつも、「いえ、こちらこそ失言を」などとバイトで鍛えた愛想笑いを返す。
カタン。
乾いた音を立てて湯呑みをテーブルに置くと、Kは腕を組んで言う。
「ともかく当職のIP開示は無敵なのです、ご安心ください。そりゃ他の無能弁護士なら、意味のない着手金詐欺ですがね。当職の場合は別ですよ、別」
「別?」
何か含みを持たせた言い回しが気にかかり、私はたずねる。Kは大きくうなずく。
「別ですよ。完全にね。当職には゜秘密の武器゜がありますので」
秘密の武器とはいったいなんだ?
更に聞こうとしたとき、「直りました!」という大声が事務所中に響き渡る。
「今度こそ万全ですよ、Kさん! 今回は、先端をパンツのゴムで固定し、さらに棒と腹のあいだにトイレットペーパーを何枚か挿入しました! これでもう腹部の汗でずれる心配もありません!」
Yが満面の笑みを浮かべてKに報告する。その姿はさながらテストで100点をとったことを母親に報告する少年のようである。
「そうかそうか、よくやってくれたね、Y君」
満足げにKが彼の頭を撫ぜる。私はいよいよもってこの事務所へやってきたことを後悔しはじめる。
「しかしね、Y君。ひとつ問題があるのだよ」
Kが軽く眉をひそめて言う。
「ど、どうかしましたか? 僕、何か問題を起こしましたか? ……あッ、まさか!」
Yの端正な顔からさっと血の気が引く。
「まさか、パンツのゴムに挟んだせいで先端が苦しかったんですか!? そうなのですね? ああ、どうしよう、僕はなんという失態を!」
「まあ落ち着きなさい、Y君」
Kが穏やかな声でYを黙らせる。
茶をすすりながら、はて先ほどとは役割が逆になったなあ、などと私は考える。
「Y君、当職はいささか興奮してしまっただけなのだよ」
Kが慈愛の笑みを浮かべて言う。
「きみがポジショニングを直すこと数回(4回だ、と私は脳内で訂正する)、きみの手があまりにも触れるため当職は性的興奮をおぼえてしまった。
こんな状態ではいくらポジショニングを直したところで、意味がないのだよ。
なにせ当職が性的興奮をおぼえると、当職の当職も自然と膨張してしまうのだからね。
……さてY君、きみならこの状況、どうやって抜け出すかね。T大卒のきみは、この問題をどう解く?」
事務所に静寂が訪れる。冷房のゴウゴウとした音が妙に大きく響く。
湯呑みを机にそっと戻しながらYをちらりと見やると、そこには頬を赤らめ、覚悟を決めたような表情の男がいた。
やれやれ。私は薄野の風俗で童貞を捨てたとある春の夜のことを思い出す。
立ち上がると、絡み合う2人の男に「では」と極めて事務的に告げる。当然彼らからの返答はない。できない、というほうが正しいのかもしれない。
私の耳には、じゅるりじゅるりという何かを絡ませ液体をすする音が届くのみである。
事務所を出ようとすると、1人の老人が寄ってきた。
「すみませんが御仁、無料相談は30分までなのじゃ。超過分の相談料金を支払ってくれんかのう」
やけにもみあげの白い老人はたどたどしく言う。ここの事務員だろうか。それにしては妙に老けている気もするが。
聞き返すのも面倒だったので無言で老人に料金を手渡し、今度こそ事務所を出る。
さて、どうしたものか。はるばる身一つでやって来たのだ、このまま何の収穫もなしに帰ったら旅費を捻出してくれた父に合わす顔がない。
となれば新しい事務所を探さねばなるまいが、しかし探す当てもない。
くぅ、と胃が鳴った。立ち止まり財布の中身を改める。腹が減っては戦ができぬ、だ。まずは回転寿司で2皿でも食べよう。
脇の車道を、運送屋のトラックが猛スピードで通り過ぎていった。運転席には必死の形相をした中年の男が座っている。
あの運転手はどこへ向かおうと急いでいるのか。彼を急かすのは、彼自身の問題であるのか、それとも周りの状況であるのか。
トラックの過ぎて行った道にオイルが垂れ、アスファルトに黒い染みを形作っている。排ガスとも土ぼこりともいえぬものが空にふわふわと舞い上がっており、それは陽光できらめく。
その風景にもなにか懐かしいものを見出そうとした私であったが、いつまで立ち止まっていてもとうとうできなかった。
-了-
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